2月8日

 

   療育セッションで特に重い障がいを持つ子どもや、とても辛い状況に陥って

 いる子どもと読む詩があります。いつもこの詩を唱え、諳んじ、この詩を生きる

 ことができるように、この詩が自分の隅々にまで奥深く浸透するようにと

 取り組んでいます。

 

 

      私たちはともに確信する。

      身体が不自由であることや情緒に障がいを持つこと

      あるいは動機付けがうまくいかないなどのその奥に

      ひとりひとりの気高い実在が

      何ひとつそこなわれることなく

      完全な姿のまま

      そこにあることを

                        (カール・ケーニッヒ)

 

   この詩を生きるということは、この世のあらゆる人間についての尊厳を

   心の底より感じるということです。反感や共感を超えて、疑念やあきらめを

   捨てて、それは、目の前の生徒に向けるだけでなく、自分に関わるあらゆる

   人に対して、自分も含めて、そのふるまいの如何に関わらず、このことを

   ねっこに据えて人間と相対していくということです。

    これは、この詩を生きようとしなければ自分には実現できないと思います。

    いつも自らの中に、この詩と反する小さな虚偽や惰性を見つけます。

   そして、この詩によっていつも浄化され、光を与えられ、そしてこの未熟な

   自らにさえ尊厳を与えられ許される、この詩の持つ絶対性に感動します。

   このように人間の本質を言い表している言葉があるでしょうか。

    

     この詩をいつも唱えてセッションを始める重度自閉症の生徒が、週に1回

   通ってきて今年6年目を迎えました。オイリュトミー療法も持続していますが、

   3年間エポックレッスンでの治療教育セッションをしたあと、3年前からエクスト 

   ラレッスンが可能になり、家庭での課題をこなして継続しています。今年は新成

   人になりました。

    今日のセッションで保護者の方が報告されたことに感動しました。

   この生徒の作業所に新しく来られた中年の方が、なかなか作業所に

   定着できない心身のしんどさを抱えて転々としておられるのだそうですが、

   その方の衣服の着脱のお世話をしたり、手をつないで誘導したりと

   この生徒がいろいろなお世話をして差し上げていてとても親身になって

   関わっているので、その方がやっとこの生徒の通う作業所で

   落ち着いて暮らせるようになりそうだというお話でした。

   職員さんの中にこの生徒のファンがいるということもお聞きしました。

    この生徒が初めてきたとき、目を合わすことも、何かを伝えることもせずに

   セッションが終わるということが多かったのですが、今は、他者と豊かに交流

   できる成人になっているということ、この手を他者の幸せのために使い

   作業所の生活を営んでいるという進展です。

    今日のセッションでも、靴下を脱いでビー玉を運ぶ訓練を行ったあとに、

   靴下を持ち上げて少しはかせるように促したのですが、それを制して、何度も

   「はく」という言葉の発話を繰り返して、こちらを懸命に見つめてくれたあと、

   自分で靴下を履かれました。手や目でのコミュニケーションと合わせて

   しっかりとした意思表示や自立的行為をできるまでになっていると

   いうことに、改めて感慨深く思いました。

    日々、少しずつ意識や行動の進展を経験してきたのですが、今日のような

   飛躍的な進展というものに出会うことがあります。そのたびに、このカール

   ケーニッヒの詩の深い真実性を改めて確信するのです。

 

    この言葉がもっともっと自分のなかに生きるように暮らしていきたいと

  また、思わされた一日でした。