6月1日(火)

 

  医療講座は、昨年より、森章吾さんをおよびして、植物の観察をはじめとして思考方法、

 認識の方法と進み、その大元の認識論として、「ゲーテ的世界観の認識論要綱」についての

 勉強会をしています。今年より日付が変更になったので多少人数が減ってしまい申し訳

 なく思っています。しかし、その分、じっくりと具体的的に、人間の知覚経験と思考の関係、

 そして学問とはどういうことか、森章吾さんがご自分で翻訳してくださっているものをさらに

 抄訳にして、さらに簡潔にご説明されている抄訳を配布してさらにそれを簡略化してくださって

 います。私たち人間にとって、知覚された経験は、全く価値の差がなく平面で並べられているの

 だけれど、それを思考の力(悟性)は差別化し区別化し、細分化して分析し、さらにもうひとつの

 思考の力(理性)が再構成しまとめあげ統合していき、ものの背後にある本質をつかむという

 ことだそうです。それで、その思考の力はどこから来るのかというと、その思考の力自身は自分の   

 内面より出てくるのではなく、精神界から流れ込んでくる力によって培われている。よって、私たち  

 は思考の力で知覚した経験をイメージの中で再構築するが、そのときに働いている思考の力に外 

 的に広がりわたる世界から流れ込んでくる力によって知覚した背後に働く力を把握することができ 

 るということでした。うまく表現できていないかもしれないのですが。たとえば植物にそれぞれひとつ 

 ひとつに働く力を観察によってみつめてきたわけですが、その力のありようを、たとえば収縮や拡 

 散、垂直に働く力、陽に向かう力などを観ていくことで、その植物の本質的なありようをつかんでい 

 くのです。

 これは、子どもをみつめるとき、その本質にせまるということができるのは、この私たちに与えられた 

 思考の力によるのですね。みつめるということ、観たことをありのままイメージの中で再構成する

 営み、そしてそのときに働く思考の力が子どもに働く力をつかみ、その子どもの本質を把握する

 ことができるということでしょうか。

 

  理論だけではなく、観察することをさらにさらに進めていくことが必要だと痛感しました。

 去年、植物の観察を始めたときに、森章吾さんが1年も同じ植物を見ても、まだまだ認識できて

 ないことに思い当たるときがあり、新しく発見できる見方を得たとき、目からうろこが落ちたような

 感じがあるというようなことをおっしゃっておられて、絶対に自分の見方が全てだと傲慢に思うと

 まちがいが起こる。あなどれない。認識には限界がないとおっしゃっておられました。それは

 より正しくものごとをみつめていくプロセスで、いつになっても、自分の認識を塗り替えるような

 新しい認識がまだまだあるということ、本質にまだまだ近づけるということです。

 いつも、発展途上ということでしょうか。そういうふうに真剣に謙虚にひとつの植物に向き合おうと

 しておられる森さんに、いつも学びを与えていただき感謝しています。

 

 この講座は、7月にまとめをして、秋から「骨」について、学ぶことになりました。

                                              (ちあこ)